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や満登の歴史 History

History



や満登にまつわる「日本橋の歴史」
日本橋とともに歩んできた「や満登」の歴史

撮影・持田晃氏
明治のおわりから大正の頃、現在の八重洲一丁目界隈に「日本橋」という名称の花柳界ができ、土地の名をとって「檜物町」ともよばれていた。 芸者衆は 檜物町芸者または、槇町芸者と呼ばれ、500名はいたといわれている。
泉鏡花の「日本橋」という小説は、この檜物町花柳界が舞台で、新派の芝居にもなっている。この芝居で、芸者さんのやりとりの中に「や満登さんでお座敷よ」という台詞があり、それだけや満登が当時の花柳界を代表する料理屋だったことがうかがえる。

「“日本橋”のお芝居がかかると、俳優さん方が必ずうちにいらしていたようです。戦後明治座さんで公演の時には、千秋楽に芝居がはねてから、新派の皆さんが全員で宴会をされたのを覚えています」三代目 成川孝行談
大正の終わりから、昭和の初め頃には「日本橋三業同盟会」ができた。三業とは、待合(料亭)、料理屋、芸者屋(置屋)から成り、待合が60軒、料理屋が5-6軒あった。
その後、「三和会」という名前で日本橋、柳橋、新橋、の花柳界が会を作り、戦前の東京には40あまりの花柳界があったが、その中でもこの三和会は一流とされた。
東京駅八重洲口

撮影・持田晃氏
東京駅は、大正3年に開業するが、当時八重洲口側には改札口がなく、昭和7.8年に1カ所だけができた。当時は駅と言っても八重洲通りの幅だけが東京駅という感じで列車の操車場は凄く広かったが駅舎そのものは小さかった。



三代目の語る「日本橋四方山話」
檜物町とは
昭和3年頃まではこのあたりは「日本橋区檜物町」といわれていた。これは江戸時代に徳川家康が江戸城のまわりに武家屋敷を建てる際、尾張から宮大工を集めて住まわせた。大工は檜を扱う仕事であることから「檜物町」の名が生まれたと言われている。 当時、星野又衛門という棟梁が町名主としてこの地に住んでいたらしい。昭和3年以降は、「呉服橋」その後「八重洲」と呼ばれるようになる。
酒亭「小や満登」の誕生

酒亭「小や満登」
料理屋「や満登」の別店として親しみやすい店を作ろうと昭和 年に、酒亭「小や満登」を開店した。本店で使用していた器に盛りつけたり、透明なお燗ビンでお酒を楽しんでいただくなど、工夫された小粋な演出がお客様に喜ばれた。
や満登づくり
や満登の創業は明治35年。初代国太郎は、マグロのトロを初めて刺身として供した。中トロの柵取りを幅広くし、大根おろしとわさびを挟んで(包んで)召し上がっていただく元祖トロの刺身は、今でも「や満登づくり」と呼ばれている。

(や満登づくり)

昔はマグロの中トロを出す料理屋はなく、中トロはねぎま鍋として職人さんたちの食するメニューでした。しかし「こんな美味しいところを料理屋で使わないのはおかしい」と感じ、脂っこさを美味しくいただく方法を考案しました。
飛騨牛

三代目店主が夫婦で飛騨高山を訪れた際、地元・飛騨牛の美味しさに魅了されて以来、東京で一人でも多くの方々に召し上がって頂きたい一心でや満登に取り寄せました。

日本初!料理屋の主人(三代目)が料理番組に出演

「料理の窓」収録風景
昭和34年、フジテレビの料理番組「料理の窓」に講師としてレギュラー出演。
当時は料理番組に娯楽的な要素はなく教養番組であったため、料理教室の先生(他局では江上トミさん、飯田美雪さんなど)が講師をつとめていたがこの番組は初めて、料理屋の主人を講師として出演させた。各店の主人が出演することは大変珍しく、家庭料理ではなく料理屋で出される料理の作り方を放映したのは初めてであった。
--芽生会の仲間である永田町瓢亭の高橋氏の薦めで出演を決心したが、日本料理ではもうひとり、築地 金扇の和田氏が出演していた。1回の放映に2品のメニューを考えることになっていて、料亭ならではの料理でありながら、テレビを見ている方が手に入れやすい材料で作れるように工夫した。 薩摩揚げを素材にした料理を紹介したときには薩摩揚げが飛ぶように売れたというエピソードも 残っている。 下ごしらえは、店でしてスタジオでは2回リハーサルを行った。当時は、生放送だったので、ライトの熱で食材が乾いてしまうこともあり、布巾でしめらせるなどの工夫も必要とされた。乾燥で魚の皮が包丁にはりついてしまったり、ガスの火力が弱かったりと調理場との違いにとまどうことも多かったが、結構落ち着いていたとの評判であった。ファンレターは今も保存されている。
芽生会(めばえかい)とは
東京の日本料理屋の二代目、三代目の集まりで、現在日本料理組合の二代目会として全国的な組織をもつ芽生会は、昭和8年に東京で発足した。築地・魚河岸の「美濃桂」という仲買商に集まる料理屋のご主人たち4-5名が酒を飲み交わすうちに会として結成することとなり、二代目もこの仲間であった。「美濃桂」の女将さんが、これから芽が出る人たちだから「芽生会」と名付けたといわれている。発足当時、会員は東京日本料理組合の子弟に限られていた。